『私らしく』ありたいのに(1/3)

昨今の多様性を重んじる動きは実に結構なことであるが、じゃあ何をしても許されるのかと言われたらそんなわけはない。

モラルに著しく反した行動をすればそれはもうとんでもない勢いで大炎上するし、パートナーの気持ちをないがしろにした発言をすれば一瞬でフラれてしまうのは想像に難くないだろう。

まぁこんな顕著な例はさておき。

周囲と良好な関係を築くべく、自分の気持ちに蓋をしなければいけないことが多々あるわけだが、そんな時にふと思う。

「今の私は誰なんだろう?」と。

今回はそんな疑問をなんとか処理するための私の考えを記す。私見マシマシなのはご愛敬。

あ、あと私学生なんで、対等な関係を築きたいという前提の下で話を進めます。

外部への発信

まずは外界に対してどのようなスタンスで臨むか考えていく。

といってもその候補は大きく分けて二つ。「外骨格」or「全裸」。

(1)外骨格

周囲を意識して̚カドを立てないようにしてる状態。オトナって感じ。

別に悪くはないんだが、これだけを続けるとうっすい関係値のままの人間がどんどん増えていく。あー過去の私だこれ、、

悪くないのに私がなぜ後悔しているか。それは、他者と身内(仲のいい奴)のボーダーラインをミスったからである。

頻繁に話に行くのは身内。接点がなかったり、話す機会を設けられれば話す程度の奴は他人。この辺はまぁまだわかりやすいからいい。

問題は「ときどき自分から話しかけに行く人」をどっちに含めるかである。

おそらく他者とするのがベター。身内の基準をちょい厳しめに。

私はかつてこれを身内側と認識していたが、他者側としたほうがいいのではないかと思うようになった。そうすれば「こいつ自分のことそんなに思ってないだろうし」ってやつにも余裕で話に行ける。だって他人だもん。反応薄くても納得できるしダメージも少ない。

だから積極的にかかわりに行ったほうがいいよねって話。

この時に必要なのが外骨格。最初っから素っ裸で行くから好き嫌い分かれて受け口が狭まるのよ、、

だからまずはうまくやることを優先。もしもっと仲良くしたい人がいても、外骨格脱ぎ捨てるよりかはかかわる回数を増やしたほうが合理的かと思われる。すぐ脱ぎ捨てたらなんで着てたかわからんし。てかかかわる回数が増えれば自然と外骨格も剥げてくと思うんですよね。別にそんな意識しなくても。

(2)全裸

素ってことです。ちなみに私は全力で素を押し出したい側。

まぁ素で生きられるなら人生苦労しないわけですが。それでもそのスタンスで行こうとした二つの理由。

①ケーキの苺は最後に食べたい派

後から本性がばれて「え違うじゃん」って友人を落胆させるのが嫌だった。だったら最初に損切りのつもりで、あんまよくないって自覚がある一面も見せちゃうべきだと思ってた。

でもこれは明確に誤り。

もし自分のいいところがなかなかお見せできなかったとして。そういうときって、後からだんだんわかってもらえればいいって考えません?

その状態で悪いところだけを素として大放流したら、自分への総評がマイナスになること請け合い。だから悪いとこってのは、自分へのイメージにおいて、プラスがマイナスにならない程度に小出しにしていくべき。長い目で見るなら。

②等価交換

自分と話しているときは真顔の奴が、他の奴とは笑ってるの、なんかもやってしません?自分にも素を出してほしいなーって。

その手段として思いついたのが、先に自分が素を出してしまうこと。

とまぁ(1)で対外用の外骨格も必要って言った割に、(2)では素も不要ってことはないよねって結論になってしまった。

つまり、(1)と(2)を組み合わせる必要がある。具体的には、

理想像 = 対外用 + 素 = 対外用 + (良いところ + 悪いところ) ※ただし、(良いところ) > (悪いところ)

ってすればいい。

詳しくはこちらの記事にて。

だから、「うまくやりたい」という本心にしたがって形成された猫かぶり気味な自分も、本物ってことでいいんじゃない?

どうせ対外用の自分も少なからず必要なんだし。

真に基づく偽もまた真と言っていいのではないだろうか。

と偉そうなことを言いてみたが、自分の言動が真か偽かなんて実はどっちでもよかったりする。  (続く)

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