前回は、外部に対してどのようなスタンスで臨むべきかについて考えたわけだが、今回は「外部の情報をどのように処理するべきか」について考えていく。
前回の記事はこちらから。
気遣いブーメラン
我々は普段からバカ正直に生きているわけではない。周囲とうまくやっていくために、時には本心に則さない行動をとることも決して珍しいことではないだろう。
良かれと思って、というか実際にプラスに働くことのほうが圧倒的に多いこの行動だが、残念なことにひとつの恐怖を我々の心に植え付けてしまうことがある。そう、ブーメランである。
ブーメランっていうとなんか違うか。まぁいいや。
要するに「自分も気遣われてるのではないか」と疑うようになり、他者の行動をそのまま受け取っていいのか、それとも本心ではないのかという対極的な二択を迫られる。
あの時おしゃれだと褒められた服装は本当に変じゃないのか。
あの時あの子が話しかけてくれたのは、自分があまりにかわいそうに見え、そうせざるを得なかっただけではないだろうか。
みたいな感じで。
こういった問いは明確な答えも根拠もないため、一度考えたら最後、二度とこの迷路からは出られない。無理やり本人に真意を聞くという手もあるが、どう転んでも誰も幸せにならない。
と、私も思っていたのだが、ある曲と出会うことで考え方が変わった。
『curtain call』から学ぶ付き合い方
『curtain call』という曲をご存知だろうか。よければ一度、こちらから聞いてみてほしい。
私が着目したいのはその歌詞、特にサビの最初の部分。そのほかの部分の歌詞も何か異様に刺さっていちいち考え事をしてしまいそうなので今回は割愛。
もし沢山のことが 作り物だとしても 僕らの感じる痛みや 想いは真実だから
この歌詞を聞いたとき、自分の中で迷いを呑み込めた、っていうか、割り切れた気がした。
以下、私が感じたことなので「その解釈ちげーよ」とかは勘弁してください。
結局、他者が本音で生きているのか建前で生きているのかなんてわかりやしないのよ。
だから私たちの周りは作り物でできているのかもしれない。これも本当のところはわかんないけど。
でもね、
その周りを知覚して自分が思ったことって、真実以外の何物でもないよねってこと。
周りがほんとかどうかなんてどうでもいいのよ。自分がそう思ったんだから、それでいいじゃない。
おしゃれだと褒められて安心して自信がついたなら、胸を張って気分よく過ごしていけばいいし。
お情けでも話しかけてくれて嬉しかったなら、それを表情とかで素直に表して、なんなら自分がほかの人にそうしてあげればいい。
無限ループ
今回の話題は、前回の論点であった「言動と本心の一致性」を、違う立場から捉え直したものである。
そして前回私は、自分の言動が真でも偽でもどっちでもいい、すなわち一致性はさして問題ではないとした。
これは先述した「行動原理は自分の本心にこそ依存する」ということから、「他者の言動はあまり関係ない」という結論が得られるからである。
まとめよう。
あなたは他者の言動が本心に基づいているかなんて知る由もないので、それに対して自分が思ったことやそれに伴う感情に則した行動をとればいい。
だがそのアウトプット自体も、あなたの友人の目を通せば途端に不透明な真偽不明の代物である。
しかしそれも問題ない。
友人も友人で、あなたの言動によって生まれた自身の想いに基づいてまた行動を選択するからである。
そしてその行動が再びあなたの中で想いを産み出し、行動を決定づけていく。
人間関係なんてしょせんこの繰り返しなのだ。無限ループ。
こんな感じで考えられるようになってから、私自身、人間関係で悩むことが以前よりは減った。
みなさんにも参考にしていただければ幸いです。